感情のままに子どもを叱ってはいけないのはわかっている。だが、

投稿者: | 2008/11/24 月曜日

我が家の休日によくあるシーン。

「なんでそんなことをした。○○したらどうするんだ(怒)!!!」
「おまえは、なんで怒られてるのかわかってるのか〜(怒)!」

たぶん、怒られているいぶきは何も考えずに、ただ、たまたまにそうしていただけなのだろうけれど。

親である私が言うのは少し恥ずかしいが、いぶきは毎日自分で食べた食器をきちんと片付ける習慣のある真面目な子どもである。そして他人様からも”やさしい”と評価される子どもでもある。
しかし、反面に、ゲームが大好きで、目を離すとDSを持って遊んでいるし、親子の約束であるゲーム制限時間を気にせずWiiやPS2のゲームに没頭する子どもである。これは多くに親の不行き届きによる習慣であろう。しつけに対して親の意識が低い。そう、私の意識だ。

今日はこんなことがあった。いぶきは自宅のiMacでフラッシュの野球ゲームで楽しんでいた。いぶきは母親にゲームやり過ぎを指摘され、私のところに逃げてきて、それでも相変わらずゲームを求めてシンプルなフラッシュゲームをやり始めたという具合に。

その際、多分ゲームが思うようにいかずにイラだったようでiMacを置いている机の縁を足で蹴り押した。机が揺れた。とうぜんiMacも机上のモノも。揺れたのは確かに少しだけだった。しかし、それを目撃した私は、その行為を許すことができなかった。「なんで今、机を蹴った(怒)」

いぶきは突然のお叱りに、目をキョトンとさせ、私の方を見る。「今、机を蹴ったのはなんでだ。」

再度同じ質問だ。いぶきもなぜ怒られているのかは理解したようだ。そう、くどいが机を蹴ったからだ。しかも、なにげに蹴っただけのことが、なぜか大きな問題になっているといった様子。

さらに私の怒りは続く。「なんで、怒られているかわかるか!」机を蹴ったから。「今、机を蹴った時、パソコン(iMac)が揺れて倒れそうだっただろ。」iMacが倒れそうだったから。。。

そうだ、私が怒った本当の理由は机を蹴ったことに対してではないのだ。私の大事なiMacが倒れそうになったからなのだった。いわゆる、感情に任せて叱ったのだ。

親と子という上下関係の下に、机を蹴ったことの倫理観を正すため、いかにもしつけを装いながら、くどくどと、iMacが倒れそうになって不安になった私の感情をぶつけてしまったのである。そして、「ベッドのところで反省していろ。早く行け」とにらみつけ、我が家の押し入れ的ベッドルームへの軟禁を言いわたした。

いぶきは泣きはしないものの、目には涙をいっぱいにため、そして、すねた様子で走ってベッドルームに入っていった。ベッドルームでは壁を蹴るような音がしている。ここからは親子の我慢合戦だ。根負けして現状を避けた方の勝ち。

いぶきがベッドルームから出てきたのは、それから20分位が経過したころだった。出てくるやいなや「机を蹴ってごめんなさい。」と言った。私は「悪いことがわかったのなら、もう良い」とiMacの使用権をいぶきに譲った。再度単純なフラッシュゲームがしたそうなそぶりをみせていたから。

この一連のイベントで、私のしつけ風『感情の怒り』は正当化され、親としての大義が果たされたわけだが、どうも今日はしっくりとこなかった。それは、私自身、感情のままに子どもを叱り、それを正当化するためだけに、いぶきが犠牲になっていることをわかっていて、そして、最後はいぶきの「ごめんなさい」で締めくくられたからである。

確かにきっかけとなった机を蹴る行為はいぶきの悪かったことであるが、その後、感情に任せて叱ったことは私の方に問題がある。そんな恥ずかしいような小さな失敗を書き連ね、自分の大人気なさを再度反省しながら、今後のしつけ方について考えているところである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください