いぶきが「野球をやろう」と誘っていますが...。

投稿者: | 2008/12/7 日曜日

野球は正直いって面倒くさい。
「ねえ、野球やるが。」わが子が、そうお願いしてくる。読書中の私に、その場の状況も雰囲気も考えずに、”なんて子どもだ。空気を読めよ。俺は本を読んでいるだろ。まったくどこの子どもだ。” わが子だ。

毎週いぶきはテレビへの興味が冷めると、野球をせがむ。どうしたことだろう、私は野球があまり好きではないが、いぶきは大好きだ。野球といってもあれである、2人でやるのである。1人がボールを投げ、もう1人がバットでもって打つのである。当然だが、守備はおろかキャッチャーもいない。そのため、空振りするとボールはバッターの後ろに遠くまで転がっていき、打ってもピッチャーの後ろに遠くまで飛んで行く。打つのを楽しむとか、三振を楽しむとかといった状況ではない。全般的にボール追いかけである。

それなのに何故、いぶきよ、野球をせがむのか。

学校でも面倒くさがりで通っているらしいわが子。
恥ずかしながら、いぶきは小学校でも「面倒くさい」を連発しているのだろうと思われる。その根拠として、先日、小学校の授業中にクラスメイト相互に書いたというハガキが家に届いた。保育園時代からの友達なおき君からのハガキだった。文中にあった言葉に私は複雑になった。

「めんどくさがらなくて、がんばろう。」というメッセージ。小学2年生にしてこんなことを書かれてしまうほど面倒くさがりなのか?

これは親の影響であろう
いぶきが面倒くさがりなのは、何も隠しようも無く、私たち親のせいであろう。私も妻も面倒くさがりで、それを見て育っているいぶきも面倒くさがりなんだろう。とはいえ、私たち夫婦は夫婦で家事分担し、私の仕事は皿洗いに風呂洗い、そして掃除機担当で特に日常的に家事が習慣化している。妻も洗濯や料理は好きだし、掃除もきちんとする。つまり、それなりに普通に面倒くさい場面は子どもに見せていないはず。いや、面倒くさい雰囲気を見せる場面もある。それは例えば、お酒を飲んでのんびりしている時や、本を読んでいる時、ネットに集中している時などである。集中したり、楽しいことに没頭している時に子どもにかまっていないのである。そして、振り返るといぶきにも同じようなパターンが重なる。いぶきも本を読むのが好きな子だが、没頭し始めると、親の言葉を聞かない。ゲームをしている時も同じだ。楽しいことや興味のある事には非常に集中する子なのだ。

そのために、興味の乗らないことには、「面倒くさい」という言葉で返してしまうのだ。親の行動パターンを真似て。

今日はちょっとつきあってみるか。
親を見て子は育つというが、確かにそうであろうと思う。わが子は私(私たち)の性格に似てきている。そして、これを発展的にしかもポジティブに考えるならば、親の行動が変われば、子どもも変わるだろう。という期待にもつながる。

成功ハックスにこんな言葉が書いてあり、なんだかシンクロしている。

「自己規律の苦しみは数グラムの重さしかないが、後悔の苦しみは数トンの重さがある。」

日々の私たちの言動が、子どもの将来も変えるのだ。「環境を変えたいのなら、最も手早い方法は自分が変わることだ。世界や他人を変えようと行動する何倍も楽なことだ。」と誰かが言っていたような。

そうだ、ちょっと面倒でも今日はいぶきの野球につきあう事にしよう。やらされ野球だが、今日はサービス精神をフル稼働して、バッターの快感をいつも以上に刺激してやろう。打ちやすい球を投げて遠くまでボールを取りに行って、笑顔で「飛ばし過ぎだ、このやろー!」と言ってあげることで、お互いが成長できそうな気がする。

それにしても、ほんの少しの心の持ちようで、色々な事柄の成果が変わることを感じる。やらされ野球にもやる理由と目標もできる。そして、ボールを追いかけて今はヘトヘトに心地よい疲れを感じている。

子育てって面倒も楽しみもある。そして、面倒を楽しみに換えるコツもあるが、それは内側にある。今日もいぶきにいろいろ教えられた。ありがとう。

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